競走馬のセカンドライフのために、人と共存できる居場所づくり

永松 良太さん

永松 良太さん

熊本県江北町

  • 移住種別Uターン
  • 移住の時期2008年
  • お仕事会社員/一般社団法人クラブリオ代表理事

鈴山(杵島郡江北町)のふもとにある、「CLUB RIO(クラブリオ)」。中学時代、競走馬が走る姿に魅せられて、高校卒業後、荒尾競馬場や佐賀競馬場で裏方として競走馬の世界に飛び込んだ永松良太さん。2008年、馬と人が共存できる居場所を作りたいと故郷・江北町に戻り、「CLUB RIO(クラブリオ)」をオープンしました。「江北町は変化を受け入れる寛容さと、人の温かさがある」と話す永松良太さんに、居場所づくりをしたいと強く願うようになったきっかけや、地元で144年ぶり復活させた流鏑馬(やぶさめ)のこと、地域おこしのことなど、熱い思いを語ってもらいました。

競走馬の躍動感あふれる走りに魅了されて

馬との出会いはいつ頃ですか。

中学生のころ、競走馬を育てる人気ゲームソフト「ダービースタリオン」を友だちとよくやっていたのですが、本物の馬に会いたくて中学3年のときに父に佐賀競馬(佐賀県鳥栖市)に連れて行ってもらいました。
観客席と走路が近くて、馬が駆け抜けるドドドドっという音や躍動感あふれる姿に衝撃を受け、たちまち魅せられましたね。騎手に憧れて乗馬クラブにも通ったのですが、身長など体格的な部分で騎手の基準に合わず、やむなく断念。それでも競走馬に携わりたいという思いがあったから、熊本県にある荒尾競馬場に就職して、競走馬を裏方で支える仕事に就きました。

競走馬の育成を学ぶために、アイルランドに短期留学をされたそうですね。

競走馬育成の本場はヨーロッパで、技術的にも進んでいたので「行ってみたい」と、19歳のときに勢いで(笑)
アイルランドでは、町のフィールドの至るところで人と馬が共存していて感動しました。馬が通る道路標識があったり、授業の一環で乗馬があったり、子どもの誕生日プレゼントがポニーだったり、日常の中に溶け込んでいるんですね。カルチャーショックでした。日本では馬はこちらから会いに行かないと会えないですからね。今にして思えば、競馬と関係ないところで、人と馬とのかかわり方を教えてもらった気がします。

頑張ってきた競走馬に恩返し

江北町にUターンするきっかけは何だったんでしょうか?

帰国して荒尾競馬から佐賀競馬に移り、競走馬の世界で仕事を続けるうちに、競走馬が置かれている現状が見えてきました。日本では毎年約7000頭の競争馬が生産されていますが、毎年約3000頭が引退しています。引退した馬は最終的には殺処分されるんです。
人間の娯楽のために頑張った馬たちをどうにかできないかという思いが沸き起こりました。競走馬にセカンドライフを送ってもらうには、居場所を作らないと根本的な問題解決にはなりません。そこで引退後の居場所づくりをしようと、地元・江北町に帰りました。

馬たちが余生を送る場所を江北町に決めたのはなぜですか?

実は当初は江北町以外でもいいと思って、資金づくりをしながら馬の居場所探しをしていました。そんなときに紹介してもらったのが鈴山のふもとです。水辺のある風景が素晴らしくて、私がこの場所で馬を飼っているイメージが下りてきたんです。友人にも手伝ってもらいながら手作りでクラブハウスや敷地を整えて2008年にオープンしました。
クラブリオには、現在3頭の馬がいます。乗馬ふれあい体験や騎乗練習、ホースセラピー、流鏑馬体験など馬に触れることができる広場を整えています。水辺ではマルシェなど里山イベントも行っています。

自分がやりたいことをやっていたら、地域活動につながっていた

144年間ぶりに地元神社・天子社の流鏑馬を復活させたそうですね。

地元に戻ってから通っていた乗馬クラブが流鏑馬をやっていたので、私は県内で流鏑馬神事があると、射手として参加してきました。ある日知り合いから江戸時代、地元の天子社(てんししゃ)で流鏑馬が行われていたということを聞き、すぐに天子社の総代さんや歴史に詳しい当時の区長さんに会って話を聞きました。みんなに流鏑馬を復活させたいという気持ちがあることが分かりました。気持ちが重なると、動き出すときは一気に動きますね。資料もほとんどないし、矢など道具づくりから必要でしたが、なぜか地域のものづくりの達人とうまいことつながるんですよね。総代さんや区長さんがつなぎ役で、それぞれに与えられた役割分担が、ジグソーパズルのように整っていきました。話を始めたのは2014年の1月でしたが、おかげで10月の天子社のおくんちには流鏑馬を奉納することが出来ました。

2020年、流鏑馬の復活について絵本「駆け巡る~ぼくのまちのやぶさめ~」を発行されました。

144年も途絶えていた流鏑馬の復活は資料がなくて大変でした。やはり形として残していかなくてはいけない。そこで考えたのが絵本にすることです。絵本はいつの時代でも色あせずに残りますからね。資金は県の支援とクラウドファンディングを活用しました。
おかげさまでたくさん共感をいただき、支援も集まりました。それがうれしくて、自分たちがやっている活動が少なくとも間違いではなかった、と実感させてもらいました。優しい人が多いですよね。自信にもつながりました。活動理念やきちんとしたプロセスがあれば、人は動いてくれるし、覚悟があればなんとかなります。
絵本を通じて、子どもたちが江北の文化を知るきっかけになればいいですね。また英語でも紹介していますから、外国の方が読んで、天子社の流鏑馬を見に来る人が増えれば、こんなすてきなことはないですね。

地元に帰ってきたからには、地域おこしをやらなくてはという使命感があったのですか。

地域活動が先にあったわけではないですね。あくまで私のモチベーションは、競走馬が引退した後の道筋をつけること。馬自身が引退後の役割や価値を見つけることはできませんから、周りが代わりに見つけてあげないと。流鏑馬もその1つです。自分がやりたいことをやっていたら、地域活動につながっていたという感じですね。やりたいことでつながっているから、持続的です。

県外から地元に戻ってきて、以前のご自身との変化はありますか。

佐賀の場合は人との距離が近く、若い頃はそれが煩わしく思っていたこともありました。でも地元に戻ってからは、地域を維持していくためには人との距離が近いことが大事だということが、実感できました。特に流鏑馬などの伝統行事は、元々地域の中にいる人に加え、新しい流れが出てくることで長く維持していけるんだと思うようになりましたね。

引退した競走馬も現役の競走馬も、そして人も癒やされるように

今後やっていきたいことはありますか。

佐賀大学と連携した共同研究で、水辺の景色の中で乗馬をすると、人も馬もリラックスするということが分かりました。その結果を踏まえて、人と馬が一緒になった事業を考えていこうかなと思います。
また、引退した馬だけでなく、自然環境をあまり知らない現役の競走馬に対しても何かできないかと思っています。クラブリオで現役の競走馬が疲れを癒やすリトリートの場を提供することができればいいですね。動物の快適性に配慮した飼い方「アニマルウェルフェア」が注目される今、佐賀競馬と協力・連携しながら、佐賀県が先進地として注目されるようにしていければと思っています。

佐賀にUターンしたい、移住したいと考えている方にアドバイスをお願いします。

江戸時代、海外と唯一の窓口だった長崎から江戸へつながる長崎街道の宿場町として栄えた江北町は、変化を受け入れる寛容さ、人の温かさが脈々と受け継がれています。だから、クラブリオや流鏑馬の復活がうまくいったと思うんですね。起業する人が多いのも、そんなバックグラウンドがあるからだと思います。
佐賀はすべてにおいて「ほどよい」場所です。いろんな人とつながりやすいので、目的を持って自己実現をしようとする人にはいい場所だと思います。

これが私のお気に入りショット

天子社の参道。先人たちが流鏑馬を奉納していたかつての参道です。(現在はアスファルトで走れません)この場所で流鏑馬がおこなわれていたことに想いを馳せながら、馬と共に自分にできることを創造していく豊かな気持ちになれる場所です。現代にふさわしい在り方で流鏑馬を継承していくことが自分の使命だと感じています。

インタビューを終えて

クラブリオで水辺の風景に癒やされ、セカンドライフを楽しんでいる元競走馬のマックスとジュジュ。永松さんの引退した競走馬への思いに、人と馬が共存する姿が日本でも当たり前になればと感じました。10月、江北町上小田地区にある天子社のおくんちで奉納される流鏑馬が楽しみです。

取材・文 峯岡浩子

公開日:2021年08月11日
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